大きいだけの鈴蘭です。
(C)SEGA これは鈴蘭、一生の不覚…(´・ω・`)!!
…いえ、今更のことなんですが。
実はアニメ版の登場人物のパートナーカードを一枚も持っていないことに、メンテ直前に思い至りまして…。
慌てて獲得に乗り出したんですが。
どうも、別の話と混同していたらしく…パートナーカード獲得には不要の、ストーリーボードを必死になって進めていたという…。
イツキのクライアントオーダー進めるだけで良かったのね…(´・ω・`)グヌヌ
結局、メンテ開始までには間に合わず仕舞い。
パートナーカード獲得はなりませんでした…。
まぁ…ナギサが復帰したりもしてるのですし。
次のチャンスもあることでしょう;
再会を楽しみにしつつ、今は暫しの別れ…です。
次こそはッ(´・ω・`)!!
…因みに。
ストーリーボードでSS撮影に没頭していなければ間に合ったかもしれない…という事実は触れないでやってください。壊れます。私が(´・ω・`)
…いや、しょうがないのです…。
だって…。
(C)SEGA この姿を見過ごす事など、出来ようはずがないではないか…(´・ω・`)!!!! この絵も良いけど…カメラさん、もうちょっと引いてくれない(´・ω・`)?■考えすぎ?
今、NHKでは大河ドラマで『真田丸』を放送していますが…。
戦国末期から江戸初期にかけての真田昌幸、幸村(信繁)の親子の活躍は目醒しく。
同年代の戦国武将からも絶賛され、現代に至るまで『戦国最強』の枕詞が冠せられています。
『戦国最強』…格好いい響きです(´・ω・`)
…ところで。
ここで、ふと思ったのですが…。
逆に、『戦国最弱』と言われる人を、皆さんはご存知でしょうか?
小田 氏治 (1531?~1602)
鎌倉時代から常陸国(現在の茨城県一帯)を治めていた名門『小田家』の第15代当主。
北条、上杉、結城、佐竹といった名立たる群雄から、先祖代々受け継いできた土地を守るために奮闘しました。
彼は生涯に少なくとも三度、自分の居城である小田城を敵に奪われており。
特に一度など、上杉謙信の攻撃によって壊滅的な損害を受けて敗退。
城も領地も家臣も失い、滅亡の淵に追いやられたと言います。
ここまで大きな敗北を何度も重ねた戦国武将も珍しいらしく、『戦国最弱』の不名誉な枕詞を冠せられるようになったのだそうです。
…しかし、考えてみてください。
同じ城を三度奪われている、ということは。
二度は城を奪還している、ということなんですよね。
小田氏治は、『戦国最弱』と呼ばれるほどに戦争に関わる才能には乏しかったのかもしれませんが。
それを補って余りある、別の才能を持っていたと言われています。
彼は、身分の上下に拘らず、人を大事にする人であったそうで。
年に一度、大晦日から元旦にかけて催していた『連歌の会』では、家臣やその家族、領民などを集めて親睦を深めていた…という記録があるそうです。
当時、連歌は大流行しており、『連歌の会』自体は他の武将も開いていたようです。
しかし、一部の上流階級に限られているのが常で、小田氏治のように身分の上下無く人を招くようなものは珍しかったそうです。
小田氏治が居城を失った後。
彼を慕う家臣が、自身の家屋敷に彼を匿い。
彼を慕う人々が、再び彼の下に集まり。
一敗地に塗れた彼を、二度までも領主の座に押し上げた。
彼の人を大事にする才能…いえ、姿勢でしょうか?
それが彼を救い続けたのですね。
…実は、弱肉強食の戦国時代において、これは稀なことであったりします。
これに関しては、敵対していた上杉謙信が好例なのですが…。
彼は関東を支配していた北条氏を討伐しようと、積極的に関東に攻撃を仕掛けていた時期があります。
当初、この攻撃は順調で。
一時は、関東一円の豪族が上杉謙信の元に集まり、その総兵力は20万にもなったのだとか。
ところが…上杉謙信は、生涯でほぼ唯一と言ってもいい大敗北を喫して関東から撤退。
この敗北をキッカケにして関東の豪族たちは謙信を見限り、北条氏に寝返ってしまい。
上杉謙信は、関東を攻撃する足掛かりを全て失ってしまったのだそうです。
現代人の想像する武士の姿というと、『武士は二君に仕えず』というイメージが有りますが。
この姿は江戸時代以降に儒教思想が入ってきたことにより広まったもので、戦国期においては『七度主君を変える』と言われるほど、武士は自分の仕えるべき主君を探すものであったそうです。
自分の領地を守るためには、綺麗事だけでは済まない…そうした世の中だったんですね。
…そうした世の中にあって。
そうした世の中であったからこそ。
『戦国最弱』とされた小田氏治。
…『強い』『弱い』とは、何を指す言葉であるのでしょうね?
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