現在、セガでは東京ゲームショウとSympathy2015に合わせて、セガID利用者を対象としたアンケートを実施しているようです。

(C)SEGA
アンケートに答えるとPS4が貰えるんか…(´・ω・`)
今度、PSO2がPS4でも出るという話も聞きます。
今のPCから乗り換える事は考え辛いですが、PS4を持っていない鈴蘭としては、『これを機会に』というのも…。
本体価格も引き下げられたしのぅ(´・ω・`)
関心が高まっているのは感じるのですが、いざ買うとなると踏ん切りがつきません;
先ずはアンケートに応募して、夢に手が届くものか。
ここは一つ、運試しといきますかな。
■考えすぎ?
ここ最近。
ゲームへの『飽き』を口にする人を見掛ける機会が増えたようにも思います。
曰く『やることがない』…そんな嘆きを。
ゲームの何処に価値を見出すのか。
それは人それぞれに違いがある為、主観的なモノの『有る』『無し』で計れはしないと思います。
その人にとって、有価値と評するに足るモノが無い。
…その嘆きは、他者には容易に知り得ないでしょう。
例え同じモノを前にしても。
人が持つ、モノの価値は一様ではないのですから。
…ただ、それでも敢えて…と言うのなら。
アメリカの詩人、サミエル・ウルマンという方が書いた『青春』の詩というものがあります。
太平洋戦争終結後、日本にやってきたマッカーサー元帥が座右の銘とした事で有名な詩なのだとか。
その一節に、こんな言葉があるそうです。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる
…鈴蘭なりの解釈ですが。
『青春』とは、多感な青少年の時間、その一時期を指す言葉ではなく。
精神の在り方を指す言葉であって。
前向きである限り、人の精神は若々しく。
前向きである限り、人の精神は老いることが無い。
これは、そんな意味であるのかもしれない。
…そんな風にも思えます。
私達が普段親しむ仮想の世界においては、肉体の老いはなく。
どれだけ時間が過ぎようとも、キャラクターの姿形は変わりません。
ある意味これは、形の上では永遠に『青春』を謳歌することに通じるのかもしれません。
それは、現実の時間の流れとは違います。
…しかし。
現実に生きる私達の『青春』の終わりは、肉体に老いの無い仮想において、則ちキャラクターの『老い』…ひいては、『死』に通じるのではないでしょうか?
コンテンツが。
…それは原因に挙げられるでしょう。
しかし…『飽き』とは、果たして全て其処に起因するものなのでしょうか…?
私は、触りの良い言葉で、私の中の別の『何か』を都合良く隠しているのではないか。
…そんな事を考えた鈴蘭です。
■コメントのお返事
…また後ほど。
コメントありがとうございます。
昨日までの当たり前は、今日も、明日も続く…と、疑いもしない。
しかし…何かの拍子に、ふと。
自分の当たり前が、本当は当たり前でない事に気付かされる。
いやはや。
いつもいつも、気付いた時には遅いというのに、学習できないのは私だけでしょうか(´・ω・`)
心配しても、変わらない。
変わらないから、心配しない。
それを口にできるのは、根拠のない当たり前ではなく。
信頼の表れなのかもしれませんね。
>みうさん
コメントありがとうございます。
私を陥れようというのかね(´・ω・`)!?
雲の先には、当の3位さんがいるんですよ(´・ω・`)!?