独り言 その三百六十六

 大きいだけの鈴蘭です。

 人の目の届く範囲。
 人の声の届く範囲。
 人の手の届く範囲。

 その中にあっても、他人と自分の違いは分かるようで分からないもの。
 特に人の心というものは、物理的な距離の違いで理解が進むものとは限らないでしょうから。

 そんな人の集まりの中。
 自身に幸運が訪れたとして。
 その幸福を、周りの人達も等しく感じる訳ではないでしょう。

 例えばの話。
 自身が食事によって飢えを満たす一方で。
 それをただ眺める友人が居たとします。

 良好な関係にある友人ならば、自身が食事をする姿に幸福感を覚えるのかもしれませんが。
 しかし、その幸福感で友人の飢えは満たせません。

 食事をしている自身と。
 食事をしていない友人。
 それぞれに幸福感を覚えたとしても、それは同質のものではないでしょう。

 友人が『幸せそうな君を見ていると、嬉しくなる』と言葉にしても。
 その状況の中には、自身と友人との間の『差』が存在します。

 鈴蘭が、ここで怖いと感じるのは。
 人との関係の中で、この『差』が『役割』になってしまうことです。

 この友人はこういう人だから…。

 関係を続けるうちに、そんなレッテルを友人に貼ってしまってはいないでしょうか?

 そうして貼られたレッテルによって。
 『差』が『役割』となり、やがては『立場』になっていく。

 人間関係は、人と人とのバランスで成り立つものでしょうし。
 こうした人の位置付けは、よく見られることなのかもしれません。

 しかし思います。
 レッテルを貼ることは、相手を理解したことには通じないのではないか、と。

 その位置に置かれた友人が。
 その位置に自ら望んで在るのかどうか。

 自分には理解しがたい心を持つ相手が。
 本当に望んでいるものなのかどうか。

 友人にレッテルを貼って。
 友人自身ではなく、そのレッテルを見て関係を続けてはいないか…。
 その自問を忘れれば。
 ただ、相手の厚意に甘えるだけになってしまう…そう思う鈴蘭です。



 『君の喜ぶ姿を見て嬉しい』
 そんな友人の言葉は。
 自身の甘えが貼った、レッテルが言わせてしまってはいませんか…?



■コメントのお返事
 …また後程。
>Esuteruさん
 コメントありがとうございます。

 悩まずに済めば、それに越したことはありませんが。
 悩みたくないから…と、考えるのを止めてしまえば。
 感じることを、向き合うことを止めてしまえば。
 先の変化を望めなくなってしまいます。

 過去の心地良さを、今も、これからも繰り返す。
 過去は楽しかったかもしれません。
 現在は楽しいかもしれません。
 しかし、果たして…未来でも楽しいのでしょうか?

 同じ感覚を摩滅するまで繰り返して…それだけで良いのでしょうか。

 …これは、在り方の違いなのかもしれません。
 人にどうこう言えるものではないのかもしれません。
 ですが、鈴蘭としては。
 同じ感覚を持つ人と、一緒に悩んでいけたらと思います。

 きっと、それもまた楽しいことに違いない。
 …そう思います。



>ランラン♪(藍々)さん
 コメントありがとうございます。

 こちらでは初めまして、ですね(´・ω・`)
 この辛気臭い、鈴蘭の独り言世界へようこそですよ。
 改めて宜しくお願い致します。

 テンションの違い…。
 確かに、噛み合わないと気まずいものを感じます。
 相手に不愉快に思われていないか…と、心配にもなりますね;

 ただ、藍々さんのそれは、人を思わない身勝手なものには感じませんし。
 少なくとも鈴蘭は、不愉快に感じたことはありません。

 逆に…そうしたテンションで人に接することの出来る、陽性の人柄に憧れます。
 鈴蘭のテンションは、お世辞にも高いと言えず。
 時として相手を必要以上に構えさせてしまうので…(´・ω・`)

 この辺で、人との付き合いの難しさを感じていたりもしますね;
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