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独り言 その壱千四百弐拾九

 大きいだけの鈴蘭です。

 まだまだ暑くはありますが…8月ももう終わろうかとしています。
 いやはや…季節の移ろいは早いものですね。

 …ああ、そう言えばそろそろ…。



 こうしてノーベル賞で騒ぎ出す頃でしたか;



 いやぁ…もう秋なんですねぇ…。



 ちなみに、この記事にあるように村上春樹氏が推されているのは『新ノーベル賞』であり、『ノーベル賞』ではありません。
 今年はノーベル文学賞の受賞者を選定するスウェーデン・アカデミー(選考委員会)が委員のスキャンダル、委員会の制度上の不備などから機能不全に陥っており、選考どころではなくなってしまいました。
 しかし、こうした形でノーベル文学賞の受賞者が選ばれない事は、アカデミーにとって不名誉なこと。
 関係者としては、どうしても『アカデミーの不祥事によって選考できなかった』という記録を残したくなかったのでしょう。
 アカデミーの有志が臨時にノーベル文学賞に代わる賞を設け、体裁を取り繕った結果…今年限りの『新ノーベル文学賞』というものが出来たようです。

 金と女性と権威。

 …なんというか…。
 世界に冠たる『ノーベル賞』、『アカデミー』といっても、人が関わることに変わりなく。
 組織ができて百年以上経っていますし…。
 それこそ掃いて捨てるほどに陳腐な…ありきたりの腐り方をしたのだなぁ…と。
 変な感心をしてしまいました;



 ノーベル賞は、ダイナマイトなどの爆薬の発明によって巨万の富を築いた、アルフレッド・ノーベルの遺言によって設立されました。
 その遺言の中には、自身の遺産を証券などに投資して運用・管理し、その利子を…

  『前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする』

 と、記されています。
 …『人類のために最大たる貢献をした人々』ですか。
 科学や医学分野での貢献、というと分かりやすいのですが…文化面での貢献とは何を指すのか、今ひとつピンとこない鈴蘭です。
 いかに優れた文芸作品といっても…普遍的な価値を認められるような作品など、現実に在り得るのでしょうか?
 それこそ、人の数だけ感性の違いがあるのです。
 ただ一つの作品で、その違いを超えて心に訴えかけることなど…それこそ、おとぎ話のよう…。

 …そう、おとぎ話ですよ。

 難しい内容を難しく書くのは難しくありません。
 しかし、難しい内容を子供にも分かるように易しく書くのは、大変に難しいことです。
 おとぎ話や絵本などに代表される児童文学は、まさにそれだと思います。
 個人的には…そんな本こそ、広く人類に貢献する作品になり得るのではないかと思うのですけどね。

 ただ…悲しいかな。
 
 そうした本は、子供向けに書かれているというだけで、大人が読むものではない…という風に考える人は少なくありません。
 人が大事にすべきものを教えている本なのです。
 子供にとって価値があっても、大人にとって価値のない…そんなものを書いているはずはなく。
 きっと、大人が読んでも為になる本であるはずなのですよ。

 それらの本、一つ一つに書かれた人にとって大事なこと。
 決して、賞をとったから本に大事なことが表れるわけじゃありません。
 表れるわけじゃない…はずなのですが…。
 『伝統』や『権威』というものが、悪い形で利用されているようにも感じるのですよね…。
 こう…『この賞をとったからこそ、その本は世界に認められたのだ』というかのような。

 賞をとらねば、人に貢献できませんか?
 賞をとらねば、そこに価値などありませんか?

 …などと、私ごときが言うのは烏滸がましいことですね…;



 でも、不思議に思うのですよ…。
 ライトノベルを読んで感動することと、純文学を読んで感動すること。
 その両者の違いってなんなのでしょう?
 ありふれた話に感動するのは子供ぽい?
 高尚な話に感動できてこそ大人ぽい?
 …そんな区切りに何の意味があるのでしょう?
 その人が読んで良いと思ったのなら、それで済む話ではないのでしょうか…?
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