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独り言 その壱千参百壱拾弐

 大きいだけの鈴蘭です。




 おー、シリーズ最高記録を突破ですか…。

 人気ありますねぇ…。
 週末夜にはアークスのフレさん達も、マイルームに集まって狩りをしているのを見かけます。
 フレさんに何故そんなことをするのかと聞いたところ…『モンハンはチャットが面倒で、コミュニケーションを取りたいときはPSO2を利用している』から、なのだそうです。

 …色々あるんですね;

 しかし、面白いものです。
 インターネットを介して、実際に子どもたちが友達の家に集まるようにして、ゲームを持ち寄って遊ぶ。
 時代が進んで、物が変わっても、人の行動は変わらないのだな…と。
 今の時代にテーブルトークRPGが流行しているというのも、きっと同じ脈絡なのでしょうね。

 ほんと…世の中は何がどうなるのか…私ごときには分からないものです。

 ゲームそのものよりも。
 むしろ、そうした人を見るのが楽しくもあり。
 PSO2やアズールレーンに私が惹かれるのも、多くの人の言葉を目にすることが出来るから…なのかもしれません。



■考えすぎ?

 『知己』という言葉をご存知でしょうか。

 日常会話で頻繁に使うような言葉ではありませんし、馴染みは薄いかもしれませんが…。
 少し畏まった文章などで目にすることもあるかと思います。

 辞書を引いてみると…。

 1 自分のことをよく理解してくれている人。親友。「この世に二人とない知己を得る」
 2 知り合い。知人。「知己を頼って上京する」
                 【出典:デジタル大辞泉(小学館)


 …このように書かれています。

 この1にある『自分のことをよく理解してくれている人』という部分には、謂れがあり…。
 本来『知己』という言葉は、かつて豫譲(よじょう)という人が口にした言葉が元となった故事であったりします。

 この豫譲は、古代中国…春秋戦国時代の人で。
 晋の国に生まれ、范氏、中行氏という人たちに仕えましたが冷遇され出奔、後に智伯という人に高く評価されて重く用いられることになりました。

 しかし…。

 晋の智伯は宿敵の趙襄子を滅ぼすべく、韓氏・魏氏を従え趙襄子の居城である晋陽を攻撃した。三氏の連合軍に包囲された趙襄子は二人の腹心を秘かに韓氏、魏氏の陣営に赴かせて韓氏と魏氏を連合から離反させて味方につけた。
 韓氏と魏氏の裏切りにあった智伯は敗死し、智氏はここで滅ぼされた(紀元前453年)。
 趙襄子は智伯に対して積年の遺恨を持っていたために、智伯の頭蓋骨に漆を塗り、酒盃として酒宴の席で披露した(厠用の器として曝したという説もある)。



 戦いに参加していた豫譲は、山奥に逃げ延びて難を逃れましたが、趙襄子の行いを知ると『士は己を知るものの為に死す』と述べ、復讐を誓ったのだそうです。

 この豫譲の言葉が『知己』の語源となりました。

 ただ、この言葉だけでは『知己』という故事は生まれはしなかったでしょう。
 …少し長くなりますが、その後の豫譲についてのお話があります。



 左官に扮して晋陽に潜伏していた豫譲は、趙襄子の館に厠番として潜入し暗殺の機会をうかがったが、挙動不審なのを怪しまれ捕らえられた。
 側近は処刑する事を薦めたが、趙襄子は「智伯が滅んだというのに一人仇を討とうとするのは立派である」と、豫譲の忠誠心を誉め称えて釈放した。

 釈放された豫譲だが復讐をあきらめず、顔や体に漆を塗ってらい病患者を装い、炭を飲んで喉を潰し声色を変えて、さらに改名して乞食に身をやつし、再び趙襄子を狙った。
 その変わり様に道ですれ違った妻子ですら豫譲とは気付かなかったという。
 たまたま旧友の家に物乞いに訪れた所、旧友は彼を見てその仕草ですぐに見破った。
 旧友は「君程の才能の持ち主であれば、趙襄子に召抱えられてもおかしくない。そうすれば目的も容易く達成できるのに何故遠回りなことをするのだ?」と問うた。
 それに対して豫譲は「それでは初めから二心を持って仕えることになり士としてそれは出来ない。確かに私のやり方では目的を果たすのは難しいだろう。だが私は自分自身の生き様を持って後世、士の道に背く者への戒めにするのだ。」と答えた。

 やがて、豫譲はある橋のたもとに待ち伏せて趙襄子の暗殺を狙ったものの、通りかかった趙襄子の馬が殺気に怯えた為に見破られ捕らえられてしまった。
 趙襄子は「そなたはその昔に范氏と中行氏に仕えたが、両氏とも智伯に滅ぼされた。だが、その智伯に仕え范氏と中行氏の仇は討とうとしなかった。何故、智伯の為だけにそこまでして仇を討とうとするのだ?」と問うた。
 豫譲は、「范氏と中行氏の扱いはあくまで人並であったので、私も人並の働きで報いた。智伯は私を国士として遇してくれたので、国士としてこれに報いるのみである。」と答えた。
 豫譲の執念と覚悟を恐れた趙襄子は、さすがに今度は許さなかった。
 「豫譲よ。そなたの覚悟は立派だ。今度ばかりは許すわけには行かぬ。覚悟してもらおう。」
 趙襄子の配下が豫譲を斬る為に取り囲むと豫譲は趙襄子に向かって静かに語りかけた。
 「君臣の関係は『名君は人の美を蔽い隠さずに、忠臣は名に死するの節義がある』(賢明で優れた君主は人の美点・善行を隠さない、主人に忠実な家臣は節義を貫いて死を遂げる義務がある。)と聞いています。以前、あなた様が私を寛大な気持ちでお許しになったことで、天下はあなた様を賞賛している。私も潔くあなた様からの処罰を受けましょう。…ですが、出来ることでしたら、あなた様の衣服を賜りたい。それを斬って智伯の無念を晴らしたいと思います。」
 趙襄子はこれを承諾し豫譲に衣服を与えた。豫譲はそれを気合いの叫びと共に三回切りつけ、「これでやっと智伯に顔向けが出来る。」と満足気に言い終わると、剣に伏せて自らの体を貫いて自決した。
 趙襄子も豫譲の死に涙を流して「豫譲こそ、またとない真の壮士である。」とその死を惜しんだという。
 この逸話は趙全体に広まり、豫譲は趙の人々に愛されたといわれる。
       【Wikipedia:『豫譲』より】




 かつて明治維新の折、志士が自分の命を捨てて働いてもよいと考えるとき、『死は鴻毛よりも軽し』と表現したそうです。
 これは『自分の命は鴻(おおとり)のとても軽い羽毛よりも軽いのだ』と言っているのですが…。

 豫譲の逸話は、司馬遷が著した『史記』において取り上げられており。
 司馬遷は豫譲の生き方に対して『入固より一死あり、或いは泰山よりも重く、或いは、鴻毛よりも軽きは、用の趨く所の異なればなり(人間の命は、場合によっては重大な意味があるし、事の赴くところによれば、とても軽いことがある)』と述懐したそうで…志士の言葉は、ここから来ているとされています。

 そう。

 命の重さを知るからこそ。
 事の重さを知るからこそ。

 それを弁えて、なお。

 実際に行動した豫譲の言葉であるから、『知己』は故事となったのです。

 逆に…命の重さを知らず、事の重さを知らないのでは。
 どれだけの言葉を重ねようとも。
 どれだけの行動をしようとも。
 それは、『軽い』のです。
 『成すべきことの前には命は軽い』という…その決意が『軽い』のですね。

 豫譲がそうした人であったのなら、今の世に『知己』という言葉は残っていなかったでしょう。



 豫譲を思い。
 私という人間を振り返った時…。

 私は、いかに足りないのか。
 私は、どれほど軽いのか。

 …それを強く感じるのです。
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