独り言 その壱千弐百九拾八

 大きいだけの鈴蘭です。

 今週は2月の第2週。
 この土曜には、恒例の褐色集会が開催されました。




 『随分と人が減ってしまった』という嘆きも聞こえる、昨今のアークスシップですが…。
 そうした世相とは関係なく、今回も多くの方にお越し頂けました。
 



 最近…。

 これまでは一人で遊んでばかりだった私が、ネットワークゲームで他人が遊んでいる様子を見るようになったことで、改めて気が付いたのですが。
 私という人間は、何かを『好き』という…その熱量が、人に比べてかなり少ないのではないかな…と。
 そんなことを感じるようになりました。

 それは、アズレンにしろ、モンハンにしろ。
 …そして、この集会を見ていても同じ事で。

 何かを好きになること。
 好きなことに夢中になること。

 そこに傾けられるエネルギーが、人ばかりではなく…あらゆるものを動かして熱を放っています。
 いえ…熱ばかりではなく、私の目には光すら放って輝いているかのようです。
 その様を見るにつけ…。

 自分の熱は何処にあるのだろうか。
 自分のこれは、熱と呼べるようなものなのだろうか。

 …そうした、不安にも似た疑問が浮かんでくるのです。



 最近、アズールレーンで『夕立』というキャラクターが気に入っているのですが。




 …この子を見ていると、実家で飼われていた犬を思い出します。



 でも、不思議なんですよね…似ているところなんて何もないのに…。



 その子は、ウチで飼っていた犬の中でも一番大きな犬で。
 怒って吠えるようなことも、何かをせがむようなことも、嬉しそうにすることもなく。
 飼い主でも何を考えているのか分からないほど、無愛想で…本当に『夕立』とは真反対の、喜怒哀楽を見せない犬でした。

 ただ…。

 今思うと、あの子は何時も私の傍に居たのですよね。
 静かに、寄り添うかのように。

 もしかすると…あれが、あの子の…。



 …って、あぁ…。



 なるほど。
 私と人とが違うことに不安を覚え。
 私は『好き』であるはずなのに、もしかして『好き』ではないのではないか。
 …そうも思ってしまっていました。

 しかし、私の持つ熱…『好き』というものは。
 人を照らすような強い輝きを持つものではなく…。

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                     (C)SEGA

 何かに寄り添うような…静かなもの、でしたか。



■考えすぎ?

 凡人中壽七十歳、然而趨舍指湊、日以月悔也、以至於死。
  凡そ人の中寿は七十歳、然り而して趨舎指湊(すうしゃしそう)、日よりして以って月となれば悔やみ、以って死に至る。

 故蘧伯玉年五十而有四十九年非。
  故に蘧伯玉(きょはくぎょく)は年五十にして、四十九年の非有り。



 五十歳になってはじめて、これまでの人生である四十九年間の過ちを悟る。
 人生を振り返り反省してみると、後悔だらけである。



 淮南子(えなんじ)という、古代中国の思想書の第一巻『原道訓』にある一説です。
 
 文中の『蘧伯玉(きょ はくぎょく)』という人は、孔子が尊敬していたという衛の国(現在の河南省の一部)の大臣で。
 儒家の始祖とされる孔子をして、この人を指し『君子なるかな蘧伯玉』と言わしめたという…大変に出来た人だったそうです。



 その二人に関して、こんなエピソードがあります。



 孔子の元に、蘧伯玉からの使者がやってきました。
 その使者の身分は低く、本来であれば孔子に直接会えるものではなかったため、孔子の家の使用人に用件を伝えて帰るだけの筈でした。
 しかし、尊敬する蘧伯玉からの使者ということで、孔子は直接会って話がしたいと思い、引見することにします。
 …その席上でのことです。

  孔子『最近の貴方のご主人のご様子は、如何なものでしょうか?』

  使者『主人は過ちが少なくなるよう努めておりますが、まだまだ出来ていないと、慎み、努力しておられます』

 この使者の答えに、孔子は『主人を貶めること無く、また、同時に私を思いやって謙遜するとは…』と、出来た人の元には、それに相応しい人が集まるのだ…そんな感心をしたのだとか。



 冒頭に挙げた文は、五十歳になった蘧伯玉が自身を振り返って、これまでの人生を後悔しているものですが。
 孔子と使者の遣り取りの中で、使者は蘧伯玉の事を『まだまだ出来ていないと、慎み、努力して…』と述べているように…。
 蘧伯玉は、過去の過ちを後悔するだけではなく、『これまでの後悔を経験として活かして、これからを変えていこう』と考え、それを実践していました。
 後に、その姿勢は『六十にして六十化す』という故事にまでなっています。
             ※意:修養を怠らなければ、自然と年齢に相応しい姿となる。

 冒頭の文も、意味としては…

  『しかし、何歳になっても自己を改めれば向上していくことができる。』

 …と、転じて続くのです。



 人としては、底辺にある私のこと。
 自分のことなど何一つ満足に出来ない為に、後悔することは幾らでも思い浮かびます。
 加えて、蘧伯玉のように後悔を糧に前進するような事もありません。
 そんな自堕落な有様では、とても人にアレコレ言えたものではないでしょう。

 でも…。

 それでも、敢えて。
 私のようにはならないで欲しい…と、人に訴えるのは烏滸がましいでしょうか?

 私の拙い言葉で、伝えられるものかは分かりません。
 もしかすれば、言わなくてもいいことに触れるのかもしれません。
 それでも、敢えて…と。
 


久し振りに…(´・ω・`)

 ふと、空いた時間。
 
 久し振りに落書きでも…と、描画ツールを立ち上げました。

 人はストレスを感じると、そこから逃れるために無闇に手を動かしたがるものなのだそうです。
 私自身はストレス、なんて言うとネガティブに聞こえて嫌ですけどね。
 それは進んで考えたいことであって、別に忌避すべきことではないのですから。

 しかし…そうは言っても、これも、そうした行動の一種であったのかもしれません。



 何を言うべきか。
 言い過ぎはしないか。
 そもそも言うべき時なのか。

 それは誰への言葉か。
 私の為になっていないか。
 相手の為になっているのか。



 …それらを考え。
 ただただ、手を動かしていた鈴蘭です。



 しかし、久し振りに描きましたが…。
 相変わらず、歪んでますねぇ…;
 まぁ。
 練習もなしに上達を望む、私の心そのままと言えばそのままなのですが。
 それを見て、私自身考えねばならない…と、改めて感じたのです。
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