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独り言 その壱千弐百七拾四

 大きいだけの鈴蘭です。

 コントローラー買いました。
 『君の名は。』スペシャル版買いました。

 …幸い(?)にも、大阪のビックカメラでもキャンペーンが開催されており、半額で買うことが出来ました。
 しかし、キャンペーンとはいえ…いまさら買おうという人もいなかったようで。



(´・ω・`)
(つ□と)
くださいな。



  店員『いらっしゃいませー…って、ええっと…少々お待ちくださいね。』



 私からダミーパッケージを受け取り、バックヤードに引っ込んだ店員さん。
 1分経ち……。
 …2分経ち…。
 ……3分経ち。
 店員さんが戻ってくる気配がありません。
 こうして待たされることに拒否感を持たない私としては、別にどうという事はないのですが…。
 後ろでレジが空くのを待っている人の、無言のプレッシャーがなかなか;



(´・ω・`)
(つ x と)
…あ、出てきた。




  店員さん『○○さーん、『君の名は。』、倉庫からとってきてー!』



(´・ω・`)
(つ x と)
Oh...




 どうやら、キャンペーンを開催する為の在庫は持っていたようですが、需要が低いと見てレジの近くに在庫を移していなかったようです。
 …私の穿ち過ぎで、たまたま…かもしれませんが。
 しかし、店員さんの様子から『あー、これ買いに来ちゃいますか…』みたいな雰囲気を感じたようにも思うので…。
 今や一年一昔、ということなのかもしれません;



 あ、ちなみにコントローラーのほうは、箱コンに乗り換える前に愛用していたロジクールの有線コントローラーを買いました。
 久しぶりのPSコントローラー系のボタン配置。
 しばらくは戸惑うでしょうが…じきに慣れることでしょう;



■今日のニークス

 田沼 意次(たぬま おきつぐ)

 18世紀前半、徳川幕府第9代将軍 徳川家重と第10代将軍 徳川家治に仕えた政治家です。
 ドラマ『大奥』などでは女性を虜にする美貌の青年として登場したりするので、ご存知の方もいらっしゃるでしょう。

 田沼家は、もともと紀州藩の足軽の家系でしたが、意次の父親の代に主君の徳川吉宗に取り立てられて出世。
 吉宗が第8代将軍の座に就くと、旗本として600石(現在の価値で700万円くらい)の知行を与えられました。
 亡くなった父から家を継いだ意次は、吉宗の子供…次期将軍の家重のお世話係をしていた縁で取り立てられ…。
 そこで政治的才能を認められ、仕事をこなすうちに出世。
 1735年に家を継いだ時には600石だった給料が、1772年には57,000石(先ほどと同じ計算で、約7億円)にまで増やされました。
 貧乏旗本から、一代で駆け上がり…最終的には老中(月替わりで政務を担当する、現代の日本でいう閣僚のようなもの)にまで登り詰めた稀有な人です。

 そんな彼は、老中の在任中に幕府の財政健全化に取り組むことになります。
 吉宗の時代には財政再建に成功した幕府でしたが、根本的な解決にはなっていなかったために財政が再び悪化。
 それを受け、それまでの『質素倹約』を旨とする財政健全化政策を改め、田沼意次は独自の改革に乗り出す決意をしたのです。



 当時の日本は主要な産業と言えば米の生産くらいで、幕府の収入源も年貢の米が頼り。
 しかし、一つの産業に依存しきった構造では、経済が成長するにも限界がありました。
 特に外国との貿易において、こうした国内事情が不利に働き…。
 金や銀を輸出するものの、輸入に頼るものが多くあり(銅などは外国からの輸入に頼っており、火縄銃の玉などは7割が輸入品の銅を元に生産されたとも言われる)、どれだけ倹約しようとも慢性的な貿易赤字が当時の幕府の財政を圧迫していたのです。

 そこで田沼意次は、幕府が主導して殖産興業、経済振興を行い、内需の拡大を図る一方で…そこから海外に輸出できる商品を開発して、貿易赤字を解消しようと考えます。
 海産物の商品化、砂糖の量産化、羊毛の国内生産、朝鮮人参の国内生産などなど…多くの産業が幕府の支援を受けて事業化。
 こうした取り組みは成功し…輸入額は圧縮され、輸出額は増大。
 日本の貿易収支は黒字に転換し、幕府の財政負担は軽減されました。 

 更にこれに留まらず、田沼意次は経済活動を円滑にする為に、これまでの慣習を改め、経済の根本から覆す大改革に着手します。

 当時の日本は関西は銀貨、関東は金貨で商取引が行われており。
 東西で商取引をする場合、同じ日本でありながら相場に基づいた両替を必要としていました。
 こうした経済上の不便が国内の経済成長に悪影響を与えていると考えた田沼意次は、東西の金銀の貨幣価値を均す為に兌換紙幣を発行。
 金融の流動性を確保して、経済活動の活性化を図りました。



 それまでの日本における財政再建策というと、規制により支出を抑え、増税によって収入を増やすというもの。
 下から搾取する事で、上を富ませる…そんな方法が当たり前でした。
 しかし、田沼意次の財政再建策は、規制緩和により下を富ませ、富ませた分から税をとり、最終的に上も富ませよう…そんな方法だったのです。



 家柄ではなく、個人の才覚によって一代で登り詰めた田沼意次。
 彼は自身の経験からか…有為の人材を身分や家柄に関係なく登用する、実力主義の人でした。
 当時の老中ともなると、多くの面会希望者が屋敷の中で順番待ちをしているのが日常の風景でしたが…。
 田沼意次の屋敷では、玄関を上がってすぐの待合室では足りず、待合室の中に複数の列を作って座らせ、それでも足りないので廊下の襖を開け放って廊下にも座らせ、更に続く人を庭に…と、とんでもない数の人が訪れていたそうです。
 それというのも、彼は『会いたい』と希望する人であれば、町人であれ農民であれ座敷に上げて話を聞き、その話に納得すれば便宜を図ってくれることで知られ。
 エレキテルで有名な平賀源内も、田沼意次を訪ねて蘭学の有用性を説き、幕府による蘭学の保護と振興を訴えて認められています。

 こうした姿勢は、民衆にとっては好もしく映ったことでしょう。
 しかし、こうした振る舞いは、旧来からの日本の制度とは相容れないもので。
 古い家柄を持つ人からの受けは頗る悪く…。

 彼の死後、彼の改革は継承されることなく潰えてしまいました。

 田沼意次というと『汚職に塗れた悪徳政治家』というイメージを持つ人は少なくありません。
 実際、彼の改革によって民衆は金銭中心の生活様式に変わり、その結果として金権政治が広がり、政治の腐敗の度合いが増すキッカケを作ったとも言われていますから。

 しかし、それは功罪の罪の部分。

 近年では、それは彼の政敵により流布された虚像であった…と言われています。
 田沼意次が老中にあった頃は、浅間山の噴火、大火事、飢饉に疫病の蔓延…と、天災が続きました。
 幕府によるこれらへの対策の不備により、民衆の不満の矛先が田沼意次に向いた…いえ、向けられたのです。



 民衆に憎まれた田沼意次が失脚した当時に、流行った歌があります。

  田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水



 …田沼意次の晩年は不遇なものでした。
 政敵により長男は暗殺され。
 自分を重用していた将軍の死とともに権力の座から引きずり降ろされ。
 すべての財産を没収されて幽閉され。
 そしてそのまま、再び世に出ることなく亡くなってしまいましたから。

 彼がどのような思いであったのか…彼に関する私的な記録は、あまり残っておらず。
 彼の人物像には多くの謎があります。
 しかし、少ない史料の中に彼が晩年、息子に残した…こんな言葉が伝わっています。

 いくら借金を重ねていようとも、それを民百姓の年貢の増でまかなおうとするのは筋違いである。
 このような無慈悲なことは、領民からの信頼を失い、御家の害となり、決してしてはならないことである。


 税というものは領民から預かったものであって、それを勝手に使うのは領民への裏切りであり、してはならない。
 …それが、後の世に『悪徳政治家』として教科書にまで載る、田沼意次という人の信念であったのでしょう。



 田沼意次の領地が没収された折。
 彼の城にあった金蔵も没収されました。

 収賄によって不正に蓄えられた富を、国庫に収めよう…そうした意図があったのです。
 …しかし。
 金蔵を検めた役人が、中の光景に驚いたという逸話が残っています。



 なにしろ…『塵一つない』と評されるほど、そこには何もなかったのですから。


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