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独り言 その壱千弐百六拾参

 大きいだけの鈴蘭です。






(´・ω・`)
(つ■と)
…いい天気。




 …寒いですけどね;
 今週の真ん中は、大阪では氷点下の予想です。
 週末には少し寒さも緩むようですが…。
 寒さではなく、寒暖の差が身体への負担となると思えば。
 暖かくなるからといって、安心はできません。

 職場でも、咳をする人が目立つようになりました。
 今年も残すところ、あと10日あまり。
 できることなら、穏やかに年末年始を迎えたいものですし…。 

 お互い、体調には気をつけましょう(´・ω・`)?



■今日のニークス

 今日は定期メンテナンスの日。
 そして、ファッションアップデートの日でもありました。

 年の瀬ということもあってか…。

浪漫義士羽織(´・ω・`)
                     (C)SEGA

 今回のコスの中には、『義士』と銘打った段だら模様の羽織が入っています。



(´・ω・`)
(つ■と)
…。




 …ふと思ったのですけど。
 このコスを見て、『義士』が『忠臣蔵』の赤穂浪士を指すと分からない人も居るんじゃないか…と思ってしまったのですが、どうなんでしょうね?

 最近は年末に『忠臣蔵』をテレビで放送するのも珍しくなりました。
 昨今、時代劇は不人気…という視聴率調査の結果があり、スポンサーにアピール出来ないとして、テレビ局が時代劇を避けているのだとか。



(´・ω・`)
(つ■と)
…池波正太郎とか好きなんだけどねぇ…残念。




 さて、その中にあっての『忠臣蔵』ですが。

赤穂事件(あこうじけん)は、18世紀初頭(江戸時代)の元禄年間に、江戸城松之大廊下で高家の吉良上野介(きらこうずけのすけ)義央に斬りつけたとして、播磨赤穂藩藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩が切腹に処せられた事件。さらにその後、亡き主君の浅野長矩に代わり、家臣の大石内蔵助良雄以下47人が本所の吉良邸に討ち入り、吉良義央、 小林央通、 鳥居正次、 清水義久らを討った事件を指すものである。

この事件は、一般に「忠臣蔵」と呼ばれるが、「忠臣蔵」という名称は、この事件を基にした人形浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の通称、および、この事件を基にした様々な作品群の総称である。これら脚色された創作作品と区別するため、史実として事件を述べる場合は「赤穂事件」と呼ぶ。
       【Wikipedia:『赤穂事件』より】


 …ご覧のように、実際に起きたものが『赤穂事件』、私達がお話として目にしているものが『忠臣蔵』と呼ばれ、区別されています。

 この事件。
 刃傷沙汰が禁じられた『江戸城松の廊下』で、赤穂藩主である浅野内匠頭が、吉良上野介に斬りつけて負傷させたことに端を発するのですが…。
 この『江戸城松の廊下』での一件、なぜ起こったのか…動機や背景が分かっていません。

 『忠臣蔵』で語られるものは、説の一つに過ぎず。
 事件の当事者である浅野内匠頭は、取り調べらしい取り調べもなく即日切腹となった為に、事件の背景が分からなくなってしまったのです。
 切腹の直前、浅野内匠頭が家臣の高岡高房に『皆も、さぞ不思議がるだろうな』と言ったと伝わるほどに、突然の出来事だったともされます。

 この『江戸城松の廊下』での刃傷沙汰は、キレた浅野内匠頭が全面的に悪い…そんな幕府の偏った裁定によって、不景気の中、突然職を失うことになった藩士達が『こうなったらやってやる!』と起こした武装テロが『赤穂事件』です。
 後にできた『忠臣蔵』では、美談となっていますが…。
 『赤穂事件』として見れば、彼らの行為は当時の社会秩序に反する、れっきとした犯罪行為なのです。

 今は言葉だけの存在となりましたが、当時は『仇討ち』という制度がありました。

江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていた。しかし、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められた。

武士身分の場合は主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。無許可の敵討の例もあったが、現地の役人が調査し、敵討であると認められなければ殺人として罰せられた。


 こうしたものも、事前の届け出が前提であり…それを怠ったものは、基本的には犯罪であったのです。
 寝込みを完全武装の集団で奇襲する『討ち入り』など、許されるものではありません。



(´・ω・`)
(つ■と)
…そりゃ、ね…。




 段だら模様の羽織というと、新撰組を思い浮かべる人も多いかと思いますが…これは、土方歳三らが武士の鑑ともされた赤穂浪士に憧れて、討ち入りの装束を真似たから…と、されています。
 しかし、『赤穂事件』の首謀者の大石内蔵助からは、『当日は切り合いになるかもだから、動きやすい格好で来てね!』という指示はあったようですが、浪士達が揃いの服を着たという話はありません。

 後に作られた『忠臣蔵』によって、『夜間に集団で移動していても怪しまれない格好』として、赤穂藩が江戸市中の消防を担当していた事を参考に、当時の消防隊の制服をお揃いで着せたのが始まりのようです。

 これは、お話として作られた当時にも『討ち入り』が人目を憚るものだという認識があった…ということを示していると思います。



 …ただ。
 これらは、あくまで法に照らしたもので。
 当時の人たちが、どのように受け止めていたのかは、また別の話。

 実際のところ…事件の当日、江戸の人は『討ち入り』をどう見ていたのでしょうか?



 討ち入りを成功させた赤穂浪士は、亡き主君の眠る泉岳寺に、吉良上野介の首を持って報告に向かいます。

 吉良邸から泉岳寺は約10Kmの道のりですが…。
 当時、『毎月朔日、十五日は御禮日で江戸在府の大名、旗本は総登城しなければならない』という慣習がありました。
 討ち入りが実行されたのは12月15日の未明で、まさに総登城の当日。
 『忠臣蔵』では、浪士一行は意気揚々と引き揚げていますが、『白明話録』などの記録によれば、一行は登城する大名の行列を避けるために裏道を使い、吉良家の縁者からの襲撃を警戒しながら泉岳寺を目指していたそうで…。
 泉岳寺に着いた後も、襲撃を警戒して緊張した様子だった…という証言が残されています。
 (実際、吉良上野介の実子で上杉家に養子に出されていた上杉綱憲は、討ち入りの報を受けて兵を派遣するように指示していました。しかし、上杉家と吉良家の親戚筋に当たる畠山義寧なる人物が『激情に任せて兵を起こせば、上杉家まで潰すことになる』と押し留めたことで、赤穂浪士への反撃は実現しませんでした。赤穂浪士の警戒は、当時の状況から見て、決して杞憂ではなかったのです。)

 …しかし。

 一方で、こんなエピソードがあります。
 永代橋の袂に、『乳熊屋(ちくまや)』という味噌を扱う店がありました。
 ここの店主であった作兵衛さんは、赤穂浪士の一人である大高源吾とは俳諧仲間であったそうで…。
 本懐を遂げて帰って来た一行を店に招き、甘酒粥を振る舞って労をねぎらったと伝わっています。

 本来、こうした時には清酒を振る舞うものなのですが…。
 幕府による討ち入りの裁定がわからない状況でのこと。
 大っぴらに『お祝い』をすれば、後々幕府から咎められる可能性もあったのです。
 そこで、甘酒粥(お粥に麹を入れて炊いたもの)を出して『これは酒ではなく粥なので…』と、役人に対しての建前としたのだとか。



 赤穂浪士の縁者のエピソードなので、一般の考えとはまた違うかもしれませんが…。
 『赤穂事件』の一面を捉え、作り物ではなく、かつて確かにあったものを今に伝えて『忠臣蔵』があるのだと。
 …そんなことを思った鈴蘭です。
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