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独り言 その壱千壱百八拾五

 大きいだけの鈴蘭です。

 今日は定期メンテナンスの日でした。
 これと言って新しいコンテンツの追加などは無かったようですが…。
 細かな修正や、週末のイベントに関する追加発表などがあったようですね。

12時間生放送(´・ω・`)
                       (C)SEGA


 イベントの告知ページに、お題の詳細が追加されていました。
 さっそく見てみましょう…。

まなつのよのゆめ(´・ω・`)
                       (C)SEGA



〒 〒
(´・ω・`)
(つ■と)

…。




 …なんというか。
 獲得ポイント的に、随分とバスタークエストとアドバンスドクエストの扱いに差があるような…;

 アドバンスドクエストには、そもそも必要となるカプセルを持っていないことには参加できません。
 PT内で融通し合うか、キャンプシップ内の自販機で購入するかすれば、ある程度の対応は可能ですが…。
 アークス歴の短い人にとっては、少しばかり敷居の高いお題のように思います。

 一方で、バスタークエストにはそうした制限はありません。
 メインや上位のマッチングには、ポイントによる一定の参加条件があるものの…。
 アドバンスドクエストに比べて、その条件は緩やかなものだと思います。

 特にフリーマッチは、いつでも行ける分、むしろポイントの対象外にしてもいいくらいかな…と思っていたのですが…。

※バスタークエストについては、「メインマッチ」「メインマッチ:上級」「フリーマッチ」すべてのマッチングモードでポイントが獲得可能です。



 この『フリーマッチもポイント対象』というのが予想外でしたね…;



〒 〒
(´・ω・`)
(つ■と)

まぁ、今が旬…ということかのぅ。




■今日のニークス

 三舎を避ける さんしゃをさける

 へりくだった態度を取ること。一目置くこと。敬意を表すること。
 『三舎』は軍隊の3日間の行程で90里(約60km)の距離。



 紀元前600年頃の中国、春秋戦国時代の故事です。
 当時、晋の国の王子であった重耳(ちょうじ)は、国内での政争に巻き込まれることを避けるため、19年にも渡って中国各地を旅していました。
 しかし、旅と言っても実質的には逃亡生活のそれで。
 どの国に行っても流浪の王子を快く迎えてくれることはなく、各地で随分と苦労を重ねたようです。
 そんな境遇を哀れんだのか、当時の中国で一番の勢力を誇っていた楚の国の王が、重耳を宮廷に招き酒食を振る舞いました。
 重耳はその心遣いに感謝し、楚の王に礼を述べます。
 そこで、楚の王は重耳に言いました。
 
 『感謝してくれるというのなら、あなたが晋の国に戻ったら、どのようにこの恩に報いてくださるだろうか?』

 重耳は答えます。

 『既に楚王は美しい女性も、金銀財宝もお持ちです。晋の国にある山海の珍しい品物も、この楚の国でとれた物を楚王のおこぼれで授かったものばかり。私に何もお返しできるものはありません。』

 楚の王は、その言葉に重ねて『それでも、なにかあるはずでは?』と言いました。
 そこで重耳は少し考え。

 『もし、楚王のお陰で晋の国に帰ることが出来ましたら、いずれ天下を賭けて楚と晋が決戦するとなったとき、私はこのご恩に報いるために、楚王への敬意を示して楚軍の陣より三舎退きましょう。』

 この言葉に、同席した楚の武将は激怒しました。
 王子の身であるとはいえ、楚の王に対しあまりに不遜な態度と映ったのです。
 しかし、楚の王は『物事は天の為すように成る。人がどうして止められようか』と言い、笑って重耳の申し出を受けたそうです。



 その後、重耳は晋に帰国して王位に就きました。

 楚の力を借りて内乱を鎮圧し、政治を改め、国力の回復に努めること5年あまり。
 ようやく晋の国が落ち着きを取り戻そうというとき。
 かつて重耳を助けた楚が、天下統一を掲げて兵を起したのです。



 春秋戦国時代は、周という中国の統一国家内での内乱とされ。
 各地で覇権を争っていた者の多くは、周の王家に仕える貴族たちでした。
 建前上、貴族たちは周を助けるために独自に軍備を整え、『反乱』を収めようと各地で戦争を繰り返していたのです。
 このため、如何に強大な勢力を誇ろうとも、貴族の立場で主である周を倒して中国統一を図ろうとするのは、不遜であると考えられていました。
 (注:この辺りの解釈には諸説あります)

 重耳は、この建前を理由に楚に戦いを挑むことを決意。
 楚を迎え撃つため、晋の軍を率いて出陣しました。

 楚に比べ国力で劣る晋の軍は、数が少なく、勝ち目は薄いと見られ。
 当の重耳も、それは承知の上での出陣でした。
 しかし、重耳に負けるつもりは無く。
 強大な楚の軍と戦うに当たって、一つの秘策を持っていました。



 出陣した重耳は、楚の軍と向き合うと。
 かつて楚の王と約束した『三舎の距離』を退いて見せたのですね。



 当時、中国における軍の主力は歩兵でした。
 騎兵も存在しましたが、その絶対数は少なく…騎兵専門の部隊を編成するほどではありませんでした。
 今となっては常識ともなっている、馬に乗るための道具『鐙(あぶみ)』が当時は存在せず(中国で普及し始めたのは、春秋戦国時代から一千年後の西暦600年頃とされる)、裸馬に乗れる大勢の騎兵を整えるには、膨大な労力が必要だったのです。
 その代わりに、中国では馬が牽く戦闘車両『戦車』が発達しました。
 当時の戦車は、リヤカーのような二輪車を馬に牽かせ、御者、弓兵、槍兵の3人が乗り込んで戦闘を行っていたようです。

 晋の軍は、歩兵の数こそ楚の軍に劣っていましたが、この戦車を多く準備して戦いに臨みました。
 数の不利を機動力で補おうと重耳は考えたのです。

 しかし、徒歩に比べて素早く移動できるのが戦車の強みでしたが…その一方で、致命的な欠点がありました。
 当時の戦車には、走行中の振動を和らげる為のサスペンションが無く。
 悪路では、酷い振動のために速くは走れなかったのだそうです。



 重耳が三舎の距離を退いた先。
 そこは『城濮(じょうぼく)』と呼ばれ、大河の水が長い年月をかけて岩を削って作った平原で。
 真っ平らの硬い岩盤が広がるそこは、戦車にとって理想的な戦場だったのです。



 …重耳は、この戦いで戦車を駆使した戦術で大勝し、後に『春秋五覇』の代表格として称されるまでになりました。
 辞書的には『三舎を避ける』とは、『相手を恐れて尻込みすること』、『相手に敬意を表して謙ること』という意味となっています。
 しかし、元となったお話はただそれだけの事では無く。
 狙うべき『その先』があったのですね。

 この故事に倣うこと自体、重耳に失礼なことかもしれませんが…。



〒△〒
(´・ω・`)
(つ■と)

こういう『引き』が<出来たらなぁ…。




 …などと思ったトナイカさんでした。
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