…千…(´・ω・`)
ついに桁が上がってしまいましたか…;
私は、この独り言ブログにおいては漢数字で表記していますが。
漢数字においては『壱(一)』、『弐(二)』、『参(三)』、『拾(十)』といった漢字があるのは、皆さんもご存知のこととは思います。
しかし、普段から使う…と言うほど私には馴染みもなく…今まで題字には使ってきませんでした。
…なんか無理にカッコつけてるみたいやん(´・ω・`)?
しかし、これらの漢数字は『大字』と呼ばれ、公文書において月日や金額を表記する際に用いるよう、法律で定められている文字だったりします。
実際に法律を見てみると…。
戸籍法施行規則
第三十一条
○2 年月日を記載するには、壱、弐、参、拾の文字を用いなければならない。
小切手振出等事務取扱規程 附則 (昭和四〇年四月一日大蔵省令第二〇号)
2 小切手の券面金額は、当分の間、所定の金額記載欄に、漢数字により表示することができる。この場合においては、「一」、「二」、「三」及び「十」の字体は、それぞれ「壱」、「弐」、「参」及び「拾」の漢字を用い、かつ、所定の金額記載欄の上方余白に当該金額記載欄に記載の金額と同額をアラビア数字で副記しなければならない。
供託規則
第六条
2 金銭その他の物の数量を記載するには、アラビア数字を用いなければならない。ただし、縦書をするときは、「壱、弐、参、拾」の文字を用いなければならない。
商業登記規則
第四十八条
2 金銭その他の物の数量、年月日及び番号を記載するには、「壱、弐、参、拾」の文字を用いなければならない。ただし、横書きをするときは、アラビヤ数字を用いることができる。
…このように、ちゃんと書いてあるんですね。
これらの法律には、公文書の改竄を防止する目的があります。
例えば…『一』に縦棒を加えれば『十』になり、そこに更に横棒を加えると『千』になってしまいます。
こうした書き換えが、国家予算規模のお金を扱う公文書で横行しては大問題ですからね…;
まぁ…。
このブログの題字を改竄したところで、なんの意味もありませんが…。
回によっては、寂しい感じになるのが密かな悩みだったりしましたし。
この大きな節目を迎えた機会に、大字を導入してみるのも良いかも…?
(´・ω・`)
…似合うかね?
■考えすぎ?
…なんだかんだで、千回を数えることになりました。
PSO2のゲームブログとしつつも、大半が読み手たるアークスが必要としているかも怪しい内容ばかりですが…。
新しく何かを始めても、スケッチブックであってもノートであっても…最後まで埋める事なく放り出してしまう私です。
我ながら、よくも此処まで続いたものだと…正直なところ、私自身が驚いています。
…それもこれも、と。
思うところを少しだけ。
天網恢恢、疎而不失
天網恢々、疎にして失わず(てんもうかいかい、そにしてうしなわず)。
『老子・七十三章』の文言(『魏書』においても同種の記述があります)となり、『天に張り巡らされた網は目が大きく粗いものだが、決して逃すことはない』という意味で…。
現在、この言葉は『天は悪事を見逃すことはない』という意味で使われることが多いようです。
辞書においても『天道は厳正であり、悪いことをすれば必ず報いがある』とあり、悪事を戒める言葉とされています。
しかしながら、実はこの言葉には前文があり…『天の道は、争わずして善く勝ち、言わずしてよく応じ、召さずしておのずから来たり、襌然として善く謀る』と書かれています。
これは『自然というものは、人の及びもつかないほどに懐が深く、その指し示す道に従えば、争うこと無く勝てるようになり、自分が何か言わなくても相手に意が通じ、必要と思えば誰かが来てくれるようになる。作為のない自然の在り方は、人の考えの及ばない大きなものだ』…という意味です。
これらを通して読んでいただくと分かるのですが…この『天網恢恢』という言葉、別に『悪事』に限った話をしているわけではないんですね。
良いことも悪いことも、全てを天は見ている。
…この言葉は、そう言っています。
ここで思ったのですね。
鈴蘭にとっての『天』とは、何を指すのだろうか…と。
…以前に、フレさんから『書かれる文章が、難しい言葉を選ぶように変わって来ているように思う』と言われたことがあります。
自身では、そう言われるほどに変わったものか…その自覚がなく。
正直なところ、その時は言われたことに驚き、疑問に思ったのですが。
どんな違いがあるのだろうか。
それを確かめてみようと、過去の自分が未来の自分に向けて書いた文章を見た時。
…ああ、なるほど…と慨嘆した鈴蘭です。
過去の自分の言葉を拙誠とすれば。
それを受け取る未来の自分は巧詐…とも感じられたのです。
より良く。
より深く。
そう考えるうちに。
自分自身で組み立てるべき言葉を、何処かに置いてきてしまったようです。
より…などと考えるのではなく。
感じたままを伝えれば良い筈だったのに。
こうした、良いことも悪いことも見てくれている『人』。
これこそが、鈴蘭にとっての『天』ではないのか。
…そう思った鈴蘭です。
この独り言に耳を傾けてくださる、皆様に感謝を。
来てくれている人がいればこそ。
来てくれている人がいることを知ったからこそ。
私はこうして千を数えるまで続けることが出来たのですから。
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