【狩猟解禁まであと2日!】『モンスターハンター:ワールド』狩猟解禁まであと2日!本日は1月24日(水)ということで遂に狩猟解禁(1/26)は"あさって"となりました!待望のシリーズ最新作『モンスターハンター:ワールド』が1月26日(金)に世界同日発売を迎える。 #モンハンワールド #MHWカウントダウン pic.twitter.com/pzgmnhoYQM
— モンスターハンター:ワールド公式 (@MH_official_JP) 2018年1月24日
(つ■と)
モンハンかぁ…。
モンハンというと…私の中では、PSPで出ていた頃がピークでした。
当時は2Gでしたっけ。
その後はプラットフォームを変えて続編が制作されていましたが…。
SONYと距離をおいてからは、あまり評価が芳しくない時期が続いていたようにも。
出来ることに挑戦していく姿勢は良かったと思うのですが、ユーザーに求められているものとは微妙にズレていた感がありましたから。
まぁ、この辺は好みの問題でもあるのでしょうけどね;
久し振りのSONYハードで出来るモンハン。
待望の、と言ってもいいでしょうか。
βテストでの評判は、なかなか良かったようですし…。
予約して、商品の到着を心待ちにしている人も少なくないでしょうね。
…しかし。
【過去最強の寒気 豪雪レベルの雪に厳重警戒】
— ウェザーニュース (@wni_jp) 2018年1月24日
日本列島上空に、過去最強と呼べる非常に強い寒気が流れ込んでいます。北陸や東北日本海側では、1時間に10cmも積雪が増えるような激しい雪が数時間続く恐れも。風も非常に強く猛吹雪にも警戒が必要です。https://t.co/Xuj1QekYHd pic.twitter.com/wW8E8ev3bK
もうあと数日、日本の広い範囲で厳しい冷え込みと激しい降雪が予想されています。
東北では半日で50cmは降るだろうとも言われ、西日本でも10cmは降るだろう、と。
すでに昨日までの降雪で、関東一円の物流に結構な影響が出ており…。
私の職場では、関東を担当する部署が非常事態宣言を出して対応に追われています。
モンハンを現物で注文した方は、発売日に買えるかどうか…正直、微妙かもしれません。
昨日の火山とは事の重大さが違いますが。
これも『よりによって』な事の一つでしょうね;
(つ■と)
大阪も冷え込んでるけど…。
今週は木曜の晩から3連休。
『よりによって』の寒さを避け、部屋で暖かくして過ごすことにしましょう…。
■考えすぎ?
先日、私には『スプラトゥーン』のようなゲームにおいて、人と対戦する状況になった際、相手に勝ちを譲るところがある…というお話をしましたが…。
何故、私は人に譲るのか。
私の何がそうさせるのか。
昨日、ふと…ゲームを遊びながら、そんなことを考え。
なんとなくですが…思い当たることが有るような無いような。
果たして、明確な言葉になるかは分かりませんが…。
少し独り言を。
これまでも、あれやこれやと考えてきましたし。
いつかも似た話をしたようにも思いますが…。
私は、『私』というものがよく分かっていません。
ここで単に『分からない』といっても、伝わらないでしょうか?
誰しも、自分自身について分からないこと…というものがあるものですし。
それを特別と考える人のほうが少ないかもしれませんから。
…少し、言い直しましょう。
私には人としての肉体があります。
私には人として感じる心があります。
私には人としての名前があります。
これらが結びついて、個人として存在すると思うのですが…。
私は、私の中でこれらが結びついているのか…自信がないのです。
…思えば、私は常に何事に対しても『誰かに借りている』感覚があるように思います。
本来持つべき誰かのものを、一時借りているだけで。
返すべきとき、返すべき人が現れるだろう。
この私は、持つには過ぎたものを貸し与えられているだけなのだ…と。
それが私自身の持つものであっても。
それが私自身の考えるものであっても。
それが私自身、そのものであっても。
私は、私が私の何かを持つことの…私が私であることの…その必要性を感じておらず。
私の何もかもは、他の何かに置き代わったところで…結局、誰かにとっての不都合など起き得ない。
…そう考え、それが人に譲ることに繋がっているように思います。
でも…。
だからこそ不思議なのですね。
他と取り替えたところで不都合がないと考える『私』は、一体『何』なのだろうか。
何を目的にして、『私』は存在するのだろうか…と。
『吾が生や涯てありて、知や涯てなし』
人の生は有限でありながら、求めようとする知識には限りがない。
限られた時間で、全てを求めるのは無理がある。
道教の始祖の一人とされる莊子(そうし)の言葉です。
確固たる目的意識を持つことは大事と言えるでしょう。
ですが、目的の為に自身が縛られてしまえば、出来たはずのことまでもが出来なくなってしまうかもしれません。
自身を活かすための目的が、逆に自身を殺してしまうかもしれないのです。
…そうした過ぎた目的意識から自由であることが、人の在るべき自然な姿と説く莊子は、究極的には『万物斉同(ばんぶつせいどう)』を唱えました。
万物斉同(ばんぶつせいどう、中国語: 萬物齊同)とは、荘子が唱えた、万物は道の観点からみれば等価であるという思想である。
荘子は物事の真実たる「道」に至ることが、徳だと考えた。人はとかく是非善悪といった分別知をはたらかせるが、その判断の正当性は結局は不明であり、また、一方が消滅すればもう一方も存立しない。つまり是非善悪は存立の根拠がひとしくて同質的であり、それを一体とする絶対なるものが道である。
このようにみれば、貴賤(きせん)などの現実の社会にある礼法秩序も、すべて人の分別知の所産による区別的なものとわかる。それどころか、生死ですら同一であり、生も死も道の姿の一面にすぎないと言うのである。
【wikipedia:『万物斉同』より】
かつて、私をよく知る人から『君は、アテのない放浪の旅をするほうが幸せなのではないか?』と言われたことがあります。
その時は、『出不精の自分がそんなことを?』と一笑に付したのですが…。
人の欲など、望めば限りがありませんし。
この世界は、人の欲などよりも遥かに大きいのです。
私などが行ける場所は、たかが知れており。
何を望もうと、果てまで行けるものではないでしょう。
行かねばならない所に私の終着点が有るのではなく。
きっと、足の止まったところに私の終着点が有るのです。
そんなふうに考える私であることを思えば。
先の言葉は…正しかったのかもしれません。
…ああ、いえ。
『徳』などとは無縁の私に『万物斉同』などというものは分かりかねます。
私のコレは、自身と周囲への不理解からくる『いたたまれない気持ち』に過ぎず。
『無為』ではあっても、決して道に適う『自然』なものではないのですから。
人に譲るのは、不自然な私の自然。
…結局、考えの先にあるものではなく。
私が『正しい』などとは言えないのです。
…でも。
『私』ではなく、『鈴蘭』であれば…もしかしたら?
その期待が、私をネットに惹きつけているのでしょう…ね。